アリスズ

 トーは、剣をはいてはいなかった。

 その代わりに、己の身体で戦う男だった。

 彼は、手を拳にすることはなく──まっすぐに伸ばした手刀で突くのだ。

 その動きは、ゆるやかな残像を残しながらも、とても速く、そして力強かった。

 たとえ、手が血で汚れたとしても、そうあってしかるべきだと考えているかのように思える。

 刀で斬る菊よりも、もっと体温に近い命の奪い合い。

 トーの手は、人の命を切り取っている実感を、誰よりも抱いているのだ。

 そんな男を。

 長い時間をかけて、ようやくにして『そこ』へと連れて行く。

 彼は、ゆっくりとその広い空間を見回した。

 ただ──風が吹き抜ける夜の草原だ。

 しかし。

 視線が、一点で止まる。

 夜だというのに、あれが見えるのか。

 菊は、自分の予感の正しさに手ごたえを感じていた。

「行こう…」

 そんなトーを、菊は促す。

 その一点に向かって、草をかきわけて進むのだ。

 そこにあるのは、一本の若木。

 領域を示すように、周囲は円状に草が枯れている。

 梅のいる領地にほど近いここは、彼女らが最初に降り立った場所。

 そこに、この若木は根づいたのだ。

 景子は、何も言ってはいなかった。

 だが、彼女がここに、あえて桜の木を置いていったのは間違いない。

 都へ向けて旅立った菊を、この木は待っていた。

 幼いながらに、しっかりと根を下ろし、その首を空に向かってすっくと伸ばしていたのだ。

 近づかずには、いられなかった。

 菊の魂は、それに吸い寄せられたのだ。

 木の葉は、枯れ始めていた。

 そうか、いまはそういう季節か。

「その中は…危険だ」

 踏み込む彼女に、トーは警告する。

 彼は、ちゃんとここが何か分かっているのだ。

 だが。

「大丈夫だ…悪さはしないよ」

 菊は──腰から笛を引き抜いた。
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