アリスズ
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菊では足りない春を──呼んだ男がいる。
その男は。
歌を止めた。
止めなければならなかったのだろう。
いま、彼の頭上に広がる光景を、その目に焼き付けるために。
ざぁっと、風が唸る。
枝が揺れ、そこから惜しみもなく花びらが降り注ぐ。
「これを…見せたかった」
菊も、笛を下ろす。
闇の月夜であっても、その美しさは到底消せるものでもなく、逆に花びらの影さえも浮き彫りにする。
紅の混じった墨絵の世界。
太陽の下で見ると、同じ木でありながら、おそらくまったく違うものに感じるだろう。
長い長い沈黙の後。
「帰らぬの…か?」
男は、掠れる声で呟いた。
微かに顎を、後方へ動かす。
彼はまだ、両手を離してはいない。
菊を、此岸に引きとめている。
「これほど力のある木であれば、お前を元の世界に帰してくれように」
言葉に、彼女は笑っていた。
「然るべき時が来たら…考えるよ」
まだ、その時ではない。
ここに来た事に、彼女はまだ意味を見出していないのだ。
「せっかく…言葉も覚えたしね」
散ってゆく。
またたく間に時を失ったように、桜が散り果ててゆく。
それもまた、春。
だが、この世界には、季節がない。
季節がないから、季節の移り変わりを喜ぶこともない。
ただ──この世界の人間は、春の土地へ歩いて行くことが出来る。
「まだ…この世も、捨てたものではないだろう?」
欠けていない二本の脚があり。
彼は、どこへでも行けるのだから。
菊では足りない春を──呼んだ男がいる。
その男は。
歌を止めた。
止めなければならなかったのだろう。
いま、彼の頭上に広がる光景を、その目に焼き付けるために。
ざぁっと、風が唸る。
枝が揺れ、そこから惜しみもなく花びらが降り注ぐ。
「これを…見せたかった」
菊も、笛を下ろす。
闇の月夜であっても、その美しさは到底消せるものでもなく、逆に花びらの影さえも浮き彫りにする。
紅の混じった墨絵の世界。
太陽の下で見ると、同じ木でありながら、おそらくまったく違うものに感じるだろう。
長い長い沈黙の後。
「帰らぬの…か?」
男は、掠れる声で呟いた。
微かに顎を、後方へ動かす。
彼はまだ、両手を離してはいない。
菊を、此岸に引きとめている。
「これほど力のある木であれば、お前を元の世界に帰してくれように」
言葉に、彼女は笑っていた。
「然るべき時が来たら…考えるよ」
まだ、その時ではない。
ここに来た事に、彼女はまだ意味を見出していないのだ。
「せっかく…言葉も覚えたしね」
散ってゆく。
またたく間に時を失ったように、桜が散り果ててゆく。
それもまた、春。
だが、この世界には、季節がない。
季節がないから、季節の移り変わりを喜ぶこともない。
ただ──この世界の人間は、春の土地へ歩いて行くことが出来る。
「まだ…この世も、捨てたものではないだろう?」
欠けていない二本の脚があり。
彼は、どこへでも行けるのだから。