アリスズ

 菊では足りない春を──呼んだ男がいる。

 その男は。

 歌を止めた。

 止めなければならなかったのだろう。

 いま、彼の頭上に広がる光景を、その目に焼き付けるために。

 ざぁっと、風が唸る。

 枝が揺れ、そこから惜しみもなく花びらが降り注ぐ。

「これを…見せたかった」

 菊も、笛を下ろす。

 闇の月夜であっても、その美しさは到底消せるものでもなく、逆に花びらの影さえも浮き彫りにする。

 紅の混じった墨絵の世界。

 太陽の下で見ると、同じ木でありながら、おそらくまったく違うものに感じるだろう。

 長い長い沈黙の後。

「帰らぬの…か?」

 男は、掠れる声で呟いた。

 微かに顎を、後方へ動かす。

 彼はまだ、両手を離してはいない。

 菊を、此岸に引きとめている。

「これほど力のある木であれば、お前を元の世界に帰してくれように」

 言葉に、彼女は笑っていた。

「然るべき時が来たら…考えるよ」

 まだ、その時ではない。

 ここに来た事に、彼女はまだ意味を見出していないのだ。

「せっかく…言葉も覚えたしね」

 散ってゆく。

 またたく間に時を失ったように、桜が散り果ててゆく。

 それもまた、春。

 だが、この世界には、季節がない。

 季節がないから、季節の移り変わりを喜ぶこともない。

 ただ──この世界の人間は、春の土地へ歩いて行くことが出来る。

「まだ…この世も、捨てたものではないだろう?」

 欠けていない二本の脚があり。

 彼は、どこへでも行けるのだから。
< 266 / 511 >

この作品をシェア

pagetop