アリスズ

「どうか…しました?」

 声をかけられて、はっと梅は我に返った。

 いま。

 菊の笛の音が、聞こえた気がしたのだ。

 間違いなく錯覚なのは分かっているのだが、突然、はっきりと聞こえてきて。

 だが、それは薄れるように消えた。

「いいえ…何でもないわ」

 側に控えているエンチェルクを、安心させるために彼女は答える。

 そう。

 エンチェルクが、イエンタラスー夫人の屋敷へと連れてこられたのだ。

 アルテンの、いや、正確にはテイタッドレック卿からの好意、という形だった。

 菊と旅をした後、彼は北の自領へと帰って行ったのだが、いろんな意味でそこでは大騒ぎになったという。

 生きて帰ってきた事実だけで、奥方は泣いて喜び、卿は胸をなでおろした。

 しかも。

 声も腰も、しっかりと落ち着いていたのだ。

 旅に出ると、ここまで息子が変わるものかと、卿はもっと早く旅に出しておけばよかったと後悔したらしい。

 しかし、それにアルテンは異を唱えたのだ。

 ただ、旅をしていたわけではない、と。

 力の使い方を、教えてくれる人がいた。

 それが──菊、ということになるのだが。

 菊への御礼とやらが、何故か梅に来た。

 たくさんの本と一緒に、エンチェルクが荷馬車に乗ってきたのである。

 勿論、運んできたアルテンに、最初は断ったのだ。

 なのに。

『君は、都へ行くと聞いた』

 そう言われた。

 おそらく、菊が何かを吹き込んでいたのだろう。

 別れる時、きっとアルテンは菊に何か御礼をせずにはいられなかっただろうから。

 その御礼のいけにえに、愛すべき相方は、梅をぶら下げたに違いない。

 やってくれたわね。

『君の側で、手足になる者が必要になるだろう』

 おかげで。

 梅は──美しい肌をした、しなやかな手足を手に入れてしまったのだった。

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