アリスズ
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 自分が何を見ているのか、聞いているのか、よく分からなかった。

 年寄りや子供は、次第にうつらうつらし始める。

 荒っぽい仕事帰りの男でさえ、ただただ心地よさそうに目を細めている。

 これは、何だ?

 中心に立つのは、真っ白い髪の30歳ほどの男だった。

 声と同じように、穏やかな表情を浮かべている。

 彼は、自分の中にある楽器をかき鳴らすように歌うのだ。

 低い男の声が、異様な安心感を広場中に広げて行く。

「日が暮れる」

 キクが、小さく呟く。

 ああ、そうだ。

 日が沈む。

 人々は、帰らねばならない。

 帰るべき時間だ。

 荒くれ者は、酒場に繰り出すだろうが、普通の人々は足早に家に向かう時間。

 なのに。

 薄暗くなってゆく広場に、立ち上がる者はいなかった。

 日が沈みきると。

 歌が、変わった。

 何故か、歌い出しだけで夜の歌だと、すぐに分かった。

 そこには不吉はなく、恐れもない。

 男は、足音さえ立てずに、ゆっくりと動いた。

 ダイの方へと。

 人々は、彼を目で追わない。

 ただ、耳で追う。

 戦う者としても、おそらく一流と思える気配と身体が、ゆっくりとダイの──いや、キクの方へと歩み寄る。

 彼は、彼女を呼んだのだ。

 キクは、肩をそびやかした。

「蛇足だと思うけどね」

 唇の中で、不可思議な言葉を呟いた後。

 キクは、腰から横笛を抜いたのだ。

 風の音が、した。

 その笛から、彼女は微かな風を生みだしたのだ。

 風に、声が絡む。

 音が練り合いながら、広場を縫っていく。

 耳を奪われていると、ここがどこなのか分からなくなってくる。

 夜なのに。

 夜であることに──酔いそうだった。
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