アリスズ

 驚きは、続けてやってきた。

 外畑で、相変わらず這いつくばっていた景子の傍に、人が立ったのだ。

 自分に意識が向いているのに気づいて、はっと顔を上げる。

「行商人さんっ!」

 見覚えのある顔に、景子は驚いた。

 頭に布を巻き付けている彼は、とても特徴的な人で、見間違えようもなかったのだ。

「ケーコ?」

 だが、不思議なことに、彼は彼女の名前を口にしたのだ。

 名前を名乗ったことは、なかったはずなのに。

 とりあえず、景子はこくこくと頷いた。

「ああ、あなたが、ケーコか…」

 はぁと、肩の荷が降ろせたように、彼はため息をつく。

「ウメという女性から、伝言を預かっている」

 そして。

 北にいる、愛すべき女性の名を出すのだ。

「元気にしている…そう、伝えて欲しいと」

 口にされた伝言は、他愛ないもの。

 だが、他愛ないからこそ、景子を震わせた。

 北で、自分を案じている人がいる。

 彼女は、自分が元気かどうかを伝えたいわけではないのだ。

 自分の元気を伝えることで、景子が元気にしているか、問題ないかを心配していることを伝えようとしていたのだ。

 短いが、愛のこもった伝言だった。

 それを、律儀に彼は伝えようと景子を探してくれたのだ。

 梅の気持ちを、ちゃんと汲み取ってくれたのか、はたまた商売魂に満ちあふれているのか。

 どちらにせよ、梅は彼を信頼したのだ。

「ハイ、元気です! 農林府で働いています! そのうち子供も産まれます!」

 景子は、しゃきっと背筋を伸ばして、行商人に向かって宣言した。

 ああ、違う。

 これでは、母に自分の近況を伝える子供レベルではないか。

 違うのだ。

 梅に、本当に伝えたい言葉は。

「あの、あの、さっきのは無しで!」

 大きな箱を背負ったまま、黙って立つ彼は、録音機ではない。

 血の通う、そしてその足で長い距離を旅する、貴重な人なのだ。

「待ってます、と。都で待ってますと…そう伝えていただけますか?」

 これが、いまの景子が彼女に送れる――精一杯の愛。
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