アリスズ

「菊さんも、この西翼に仮住まいされてます」

 景子の言葉は、衝撃的だった。

 愛すべき片割れは、すぐ側に梅が来ていながら、顔さえも出さないのだ。

 だが、よく考えるまでもなく、おとなしく室内に閉じこもっている人間ではない。

 おそらく、ここには寝に帰って来ているようなものだろう。

「昼間は、詰所の方で剣を教えてるみたいですよ」

 景子の補足は、その予想を裏付けてくれた。

 剣を。

 血生臭くない剣術を、ようやく菊が人に教えられるようになったという事実は、梅にとっては嬉しいことで。

 こちらの世界に来てからというもの、菊はずっと命の取り合いのために刀を抜いてきたのだ。

 ようやく、落ち着いた平和的な居場所が、出来ようとしているのか。

 久しぶりに、そんな菊を見たいと思った。

「詰所…」

 どう行けばいいのだろう。

 梅は、唇の中で復唱しながら、そう考えかけた。

 その速度より。

「詰所なら、東翼の裏の方です…一緒に行きましょう」

 景子のテンションの方が、速かった。

 着物姿の梅の手を、彼女は引っ張って行こうとする。

「あ…でも、景子さん。そんなおなかで…」

 東翼と言えば、反対の建物だ。

 その裏にまで行くとなると、結構な距離ではないのだろうか。

「たまにしか来ないんですが、すっかり風物詩になってるみたいなんですよ。菊さん」

 言葉のキャッチボールは、成立していなかった。

 梅の投げた言葉を受け止めず、違うボールを違うところへと投げ返すのだ。

「風物詩?」

 奇妙な表現への好奇心と、元気な景子の様子に逆らえず、梅は部屋を出た。

 エンチェルクが、慌ててついてくる。

「そう…菊さんが出てくると、いつの間にか観客がいっぱい」

 彼女の言葉に、梅は遠い目をしてしまった。

 うちの相方は── 一体、何をしているのだろうか、と。
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