アリスズ

 ウメが──帰って来ない。

 夜の自宅は、エンチェルクとキクの二人きりで、火が消えたように思えた。

 帰って来なくて当たり前だ。

 ウメは、ここのところ毎日、テイタッドレック卿の子息の荷馬車で、彼が逗留している貴族の屋敷へと帰っているのだから。

 エンチェルクよりも、とても強い彼が一緒だから、何の心配もすることはない。

 そんなことを、心配しているのではないのだ。

「おーお…また屍みたいになって」

 考え込めば込むほど暗くなる彼女を、キクが茶化す。

 キッと、エンチェルクは顔を上げた。

「キク先生は、心配じゃないんですか!?」

 彼女の剣の師匠としての腕も、精神論も素晴らしいと思う。

 だが、キクは余りに奔放過ぎた。

 エンチェルクの感覚からは、とても追い付けないところにいるのだ。

「生きようとしている人間を、止める馬鹿はいないさ」

 言葉の領域が違いすぎる。

 エンチェルクがしている心配とは、違う次元でものを語られると分からない。

「生きるって…逆に死ぬかもしれないことじゃないですか」

 あんな身体で、子供を作ろうなんて、産もうなんて──その上、結婚などしないというのだ。

 どう考えても、止めるべきことと思えた。

 なのに。

 なのに、キクは笑う。

「生きるって…そういうことだろう?」

 そして、事もなげに言ってしまうのだ、この人は。

「私は…喜んでいるんだよ、エンチェルク」

 キクは、天井を見上げた。

「梅は、飛び越える気になったんだ。これまで、自分を囲ってきた病っていう柵から」

 もう、飛び越せる気でいる。

 何があるか、分からないというのに。

 その時に、梅を守ってくれる男など、誰ひとりとしていないというのに。

「でも…何も相手をあの方にしなくても。結婚できる殿方を、何故選ばなかったんですか」

 そんな、エンチェルクの悩みに。

 菊は、とても愉快そうに笑いを変える。

「そんなの決まってる…どうでもいいことだからさ」

 余りにひどい答えに──エンチェルクは、開いた口がふさがらなくなってしまった。
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