アリスズ

 梅は、宮殿を出て行くことに、異論はなかった。

 これまでが、格別の引き立て過ぎたのだ。

 それでもなお、東翼長は彼女を野に放そうとは思っていないらしく、彼の屋敷に執務室を設けてもらえる。

 仕事に、大きな支障はない。

 梅の肩書にこだわらず、懇意にしてもらった学者の方数名に挨拶を終えて、梅は晴れやかに執務室に戻ってきた。

 あとは、この部屋を片付けて、引き上げるだけだ。

 執務室に入ると、ヤイクと話をしている景子の姿が見えた。

 きっと、心配して来てくれたのだろう。

「あら…景子さん」

 だから、出来るだけ明るい声で呼びかけた。

「梅さん…」

 不安そうに振り返った景子の目が──その直後、点になった。

 本当に、目が点になった、という表現が似合う顔だったのだ。

 彼女は、何かを見て理解できない驚きに包まれている。

 梅は、思わず振り返った。

 何かあるのかと思ったのだ。

 しかし、そこにはエンチェルクがいるだけで、彼女は首を傾げて梅の視線を受け止める。

「景子さん…どうかしました?」

 固まったままの彼女に、ついに梅は声をかけることにした。

 景子は、はっと我に返って、周囲をきょろきょろする。

 まるで、誰かに助けを求めるかのように。

 ついには、覚悟を決めたのか、景子は小走りで梅に近づいてくると、顔を思い切り近づけてきた。

 決死の表情、と言った方がいいか。

「だ…大丈夫なんですか?」

 表情とは逆に、ひそひそと囁かれる声。

「大丈夫って?」

 宮殿を出て行くことについての質問には、思えなかった。

「ええと…か、身体です」

 落ち着かない唇が、一生懸命言葉を紡いでいる。

 梅は、どうにも合点がいかずに困った。

 彼女の身体の心配をしてくれるのは、いつものこととしても、この様子はどう考えてもおかしいのだ。

「もう大丈夫ですが…景子さん?」

 少し彼女を離して、東翼妃を見ると。

 景子は、何かとても言いたそうで、言えなそうな困った顔になってしまったのだった。
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