アリスズ
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 男は、マリストロイガーノスと名乗った。

 宗教画の画家だという。

 長くなりかけた髪を後ろで結んでいるが、とても貴族には見えない。

 おそらく、不精しているだけだろう。

 走り回って、余計に酔いを回したキクの腕を取り、男を連れ、仕方なくダイは自分の官舎へと連れて来た。

 トーの話を、往来でする気になれなかったのだ。

 彼は、夜側の人間で。

 都と言えども、あちら側の連中が潜んでいないとも限らない。

「最初は、これなら食いっぱぐれないと思って、宗教画を始めたんです」

 このご時勢、絵を志すのはかなり難しい。

 道楽の貴族をパトロンに持たなければ、とても食べて行けないからだ。

 ただし、宗教画は違うという。

 ちょっと美化して幻想的に描けば、それだけで神殿などは喜んで絵を買うらしいのだ。

「でも…私は、生まれて初めて奇跡をこの目で見たんです」

 彼は、手を震わせる。

 その時の興奮が、まだ手に残っていると言わんばかりだ。

「それから…私は、奇跡を描かずにいられなくなって、奇跡を追い求めて来ました」

 それで──トーの噂にぶちあたった、というワケか。

 イデアメリトスと違う意味で、確かにあれも奇跡だろう。

 しかも、あの男は太陽のお墨付きだ。

 描くのに、何の障害もないと思っているに違いない。

「私は、歌う男を描きたいのです! 歌で人を癒すという、その男を!」

 ひよわな身体でも、奇跡だけを追いかけてこの都までくる熱意は大したものだ。

 ふわあ。

 熱意の向こうで、キクがあくびをした。

「ちょっとばかし、話が変わってるように聞こえるな」

 あくびの音で視線を向けるマリスに、キクが気だるげに言う。

「変わってませんよ!」

 とんでもないと、否定する彼に。

「『夜に歌う男』を、描きに来たと言わなかったか?」

 瞬間。

 マリスは、はっと息を飲んだ。

「そ、それは…」

 突然。

 彼は、視線をおどおどと動かし始めたのだった。
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