アリスズ

 エンチェルクの朝は、道場の掃除から始まる。

 桶に水を汲み、雑巾を強く絞るのだ。

 そこまでやって、初めてエンチェルクはその塊に気づいた。

 道場の奥。

 木剣置き場のあたりで、それらが散乱しているのだ。

 その下で、男が眠っている。

 ああ。

 昨夜、キク先生が連れてきた人だと分かった。

 何でも、あの白い髪の男──トーの客だとか。

 エンチェルクは、複雑な心境を隠せなかった。

 梅を起こしてくれた恩はあるが、その後の彼の行動が余りに鮮烈で、脳裏にこびりついて離れないのだ。

「おはよう」

 ため息をつきかけたところに、後ろから声をかけられて、彼女は思わずとびあがりそうなほど驚いた。

 慌てて振り返ると、そこにはアルテンがいて。

「お、おはようございます!」

 エンチェルクにとって、複雑な立場の相手だ。

 貴族で、元雇い主で、兄弟子で、梅の相手で──そして、今日、領地に帰ってしまう人でもある。

「最後に、掃除をしようと思ってな」

 気づいたら、彼女の手から雑巾が奪われていた。

 大きな身体とは裏腹に、アルテンの手はとても素早い。

 エンチェルクに、あっと思う暇も与えなかった。

 貴族が、掃除。

 その姿を見たのは、これが初めてではない。

 しかし、いつも驚いてしまう。

 彼は、それを屈辱とは思っていないのだ。

 エンチェルクが、どうしたらいいのか分からないでいると、次にすべきことを彼が教えてくれた。

「あれは…何だ?」

 木剣の下敷きになって、眠る男を指すのだ。

 あの男を起こさなければ、掃除どころではない。

「キク先生のお客さんです」

 エンチェルクは、すみやかに言葉を省略した。

 トーのくだりのあたりを、全てはしょったのだ。

 そして、彼女には。

 男を起こし、木剣を片づけるという仕事が待っていた。
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