アリスズ

 景子は無事だったが──彼女とリサーとの間の溝が、決定的なものになってしまった。

 菊は、その気の流れをはっきりと目にしたのだ。

 参ったね。

 それほど、先日の御曹司の行動は暴挙だったわけだ。

 この分だと、遠からずリサーの堪忍袋の緒が切れるだろう。

 ぴりぴりとした空気に、菊は吐息をついた。

「景子さん」

 歩きながら、菊は彼女に語りかける。

 勿論、日本語で、だ。

「はい?」

 小さな声。

 一番後ろから歩く二人は、こうして時々母国語で話をする。

「場合によっては、彼らと別れることもあると思う」

 前を歩く4人を、菊は軽く視線で指した。

 片言の言葉や町の様子など、学ぶべきことは、足りないながらに身に付けている。

 最悪の事態がきても、行き倒れにならずにすむだろう。

「あ…やっぱり、そう…ですよね」

 景子も、リサーのピリピリした空気を察知しているようで、声が深く深く沈んでゆく。

 彼女が獣に襲われたのは、さしたる落ち度があるとは思えない。

 言うなれば、ただ運が悪かった。

 普通の人間に、気配を殺した獣の気を察知しろというのは、無理というものだ。

「大丈夫…心配しないで。旅のやり方は分かったし、ね」

 そう言葉を紡ぎながらも、本当は知っていた。

 菊と二人で旅をすることに、彼女が不安を覚えているわけではない、ということを。

 景子が気にしているのは。

 ちらりと、メガネの視線が前を見る。

 そう──御曹司だ。

 最初から、この二人には不思議なものを感じていた。

 年が離れているせいで、疑似的な母と子の感情のようなものかとも思った。

 しかし、どうも違う気がする。

 小さいくせに。

 御曹司は、男の顔で景子を見るのだ。
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