アリスズ

 朝。

 無言で、身体を揺すられる。

「ん…?」

 身体は、まだ寝足りないと訴えるが、景子は何とか目を開けた。

 旅の日々に、寝足りる日などありはしないのだから。

 目を開けると、まだ辺りは暗い。

 メガネをかけて、自分を起こした人をよく見ると──菊だった。

 呼びかけようとしたら、人差し指で声を出してはいけないと伝えられる。

 あ。

 菊の神妙な表情に、反射的に意味を理解した。

 前もって、彼女に言われていたから尚のことだ。

 起きているのは、ダイだけ。

 いつ寝ているのか不思議な彼は、じっとこっちを見ている。

 ああ。

 菊は、静かに旅立つ準備を始めていた。

 景子はすぐに動けないまま、目だけでアディマの寝ているところを見つめた。

 最近、リサーの機嫌が特に悪いので、側で寝るのを遠慮していたのだ。

 アディマもまた、彼の機嫌の悪い理由を理解しているのか、甘んじてそれを受けているように思えた。

 菊が勝手に思い立って、動いたとは思いづらい。

 ということは、このことを少なくともリサーは知っているのだろう。

 ダイの様子からも、それが見てとれる。

 不審に思う気配も、止める気配もないのだから。

 準備なんて──すぐに出来てしまう。

 景子は、足を戸惑わせた。

 もう一度、アディマを見る。

 マントをかぶっているために、よく顔が見えない。

 そんな景子の肩を、ゆっくりと菊が触れた。

 でも、だって。

 お別れも言ってない。

 こんなに素晴らしい旅を、共に出来たお礼も言えてない。

 動けない彼女を、菊は引っ張ってゆく。

 引っ張った先にいたのは──ダイ。

 彼の前に、菊は景子の身体を押し出すのだ。

 ああ。

 言いたいことがあるのならば、彼に伝えていけばいいと。

 そう、菊は言いたいのだろう。

 あうあう。

 頭の中に、たくさんの言葉が渦巻く。

 しかし、景子が捕まえられた言葉は、たった一つの日本語だけ。


「さようなら…」
< 72 / 511 >

この作品をシェア

pagetop