あしながおにいさん
「お客さん‥?」


「あ‥?はい?」


「お釣りですよ、はい」


「ああ、すいません」


店先で妄想していた僕は、若い女性の店員から見たら気持ちのいいものじゃなかったろうに‥。


僕は飲み物をトレイに載せ、足早にテーブルに向かっていた。


心が弾む。


テーブルに、いや、僕を見つめて微笑んでいる美雨に、薄いベージュのスポットライトが当たってるように見えた‥。

ほんの数分のことだったにちがいない。


目の前にいる美雨の存在さえ忘れて、碧く澄み切った海底で、僕の傍らを過ぎ行く魚達を思い浮かべたのは。


タンクを背負い、重装備でなければこんな小さな魚達と同等のレベルに立てない人間の悲しさ。


金や道具や人手を屈指しなければ対峙することさえできない人間の弱さ虚しさ。

海の中に身を委ねると、人間の持つ傲慢さを洗い流してくれるようだ。


そして無垢な心を魚達から教えられる‥。


母なる海とはうまく言ったものだ‥。


そして目の前にいるこの女性も、もうすぐ妻となり母となる‥。


あ‥!またやってしまった‥。


何もこんな時に自分勝手に回想しなくてもいいものを。


我にかえった僕は、あらためて美雨を見つめた‥。


きっと美雨は、自分自身の婚約に対する期待と不安を、今僕たちが共有するこの優しい空間に封じこめ
ようとしてるんじゃないだろうか‥。
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