あしながおにいさん
それはまるで、まだ蕾だった名もない小さな花が、申し訳なさそうに開花していくような‥。


そんなゆっくりとした動作で、背中に絡めた僕の肘に、美雨の手が添えられた。

小刻みな手の震えに、美雨の心情が伝わってくる。


ためらい、恥じらい、はにかみ‥。


叩きつけるような雨音が、二人の高鳴る鼓動を掻き消す。


僕の右の頬と、美雨の左頬とが触れ合った。僕は、そっと顔をずらして、目を閉じながら美雨の頬にキスをした。


そして桃色に染まった美雨の耳元で囁いた。




『ありがとう‥』


「私は‥も‥される‥」



激しい雨音が、か細い美雨の声を包み隠す。ごめん、聞こえなかった、もう一度、と耳元で囁き、少しだけ紫がかった唇の動きを見つめた。



「ありがとう、だなんて。私は何もアキさんに感謝されるようなことしてないのに‥」


美雨の瞳がゆらゆら揺れ動く。海を感じた‥。母なる海を。


逆にアキさんのほうが‥、と訴える美雨を、小さく首を横に振り制した。ごく自然に、僕たちは向かい合っていた。


ぎこちなくお互いの両肘を抱えながら。


突然静寂が訪れた。神業のように雨が止んだ。太陽が、早足で天空を駆け巡る雲のすき間から僕達を照らす。


わかっていた。それは僕を制する神の仕業だと。


それ以上、その人の心を乱してはならない、それ以上踏み込むことは許されない‥。太陽に姿を変えた神様は、美雨の代弁者なんだ。

だから、だから‥、離れなくては‥。


目を閉じた。美雨の形のいい唇の残像を描きながら、そっと体を離し、雨宿りし始めた時のように肩を並べて空を見上げた。


二人、同時に‥。


夏が始まろうとする空を。
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