ラヴレス
『知純、お母さんね、』
甘く優しい声で、母さんは言ったのだ。
『恋、してるのよ』
「幸せ」なんて形に出来ないと知っていたませたこどもの私は、けれどその時確かに、母から「幸せの匂い」を感じ取ったのだ。
「先ずは、僕が行って様子を見る。君はここで待っててくれ」
そう残し、重く重厚な扉の先にキアランが消えてから数分は経っていた。
そのたったの数分が今の自分には酷く長く感じ、寧ろこのままその数分が終わらなくてもいいと、つい思ってしまう。
ソフィが隣に居るというのに、特に大した会話もなく、やはり時間は過ぎていった。
麗しい淑女を思わせる回廊の装飾も、今だけは、この目を釘付けにはしない。
『…ちぃちゃん、帰ろうか』
「天使」に裏切られた、あの柔らかな陽射しの日。
母は、どんな想いで、どんな心で、どんな痛みを堪えて、私にそう言ったのだろう。
(母さん、私は「天使」に、なにを言えばいいのだろう……)
母が愛した人。
母を裏切った人。
母を、幸せにできなかった人。