グレスト王国物語
────

──



さぁ、さぁ、

見慣れない場所で、シルヴァは雨に打たれていた。

水溜まりを飛び越え、泥を跳ねて足早に家路を急いでいた。

(この体…私じゃない。)

まるで誰かの体に、入り込んでしまったようだった。

いや、きっとそうなのだろう。

(夢…?)

自分の記憶には存在しない光景だった。

だが、夢にしてもそれは、やけに現実感のある夢だった。

(誰だろう。この人…)

体つきから、自分が取りついたのは男のような気がした。

彼が走っているのは、薄暗い裏路地のようなところだった。

どぶや生ゴミだろうか。酷い臭いがする。

雨に濡れて一層みすぼらしさを増した裏路地。

そこには寒さに震えながらも、住む家がなく道端に座り込むものや死んだように横たわったまま動かないものまでいる。

彼は、力強い足取りで雨の中を走り抜けて行く。

角を曲がったり、階段を降りたりしてしばらく走ると、彼はある小さな、壊れかけのような家の前で止まった。

少し息があがっている。

何か嬉しいことでもあったのだろうか。

彼の口元が楽しげにほころんだのが分かる。

深呼吸をひとつ、彼はがたがたのドアを開けた。

「今、帰ったぞ……」

どこかで聞いたことのある、落ち着いた男性の声。

しかし、最後の方は、ほとんど言葉にならなかった。

鼻をつく臭い。

そして、闇。

雨風が吹き込む部屋に満ちていたのは、闇。

そして、その中にぼんやりと発光しているかのように滲むのは、

滲むのは、

「…グレイ?」

女の、白い素肌。

彼女は、この雨の中で何も纏わずに、小さな部屋の隅にうずくまって、膝を抱いて震えていた。

「グレイ…?」

彼の身体が、僅かに震えていた。

何か危険なものに近づいて行くように、彼はその娘にじりじりと歩み寄って行く。

近づくと、男と女が交わった時の独特の臭い。

吐寫物の臭い。

そして、

血の臭いがした。

「…大丈夫か。」
< 137 / 243 >

この作品をシェア

pagetop