異常人 T橋和則物語
 セロンは言葉を呑んだ。なんといえばいいのか判らなかった。
「セロンさん、和則君をすぐに返しなさい。あなたでは彼をサポートできません。和則君のようなひとを医療知識のないものが扱いこなせません。とんでもないことになる前に、早く彼を返すんです」
 怒りの波がセロンの血管を走った。冷静に、セロンは自分にいいきかせながら、あせりを隠そうと咳払いを二回した。「すると、あなたの考えでは、おれが人さらいで、警察を呼ぶと…?」セロンはつっかえながらいった。
「わたしが思うに、あなたは人さらいで身の代金を要求しているようには思えませんね」 そうさ、ひとさらいじゃない……セロンは思った。口では次のように言った。「そうです。金目的ではありませんよ。警察は……勘弁して下さい」
「わたしにいわせてもらえば、あなたは和則君のことを少しも理解してない。和則君のことを”救う”とかおっしゃってますが、医療知識もないものが異常者を救えますか?これはクイズではありません。簡単なことです」竹田がおだやかにいった。「彼を、返すのです。今すぐ。……とんでもないことになりますよ」
 この言葉があまりに真実を突いていたため、セロンは驚いて、こころもと身を強張らせた。百本の薔薇の棘に串刺しにされたような痛みを、感じた。竹田はバカじゃない。
 その間も、和則はズボンに手をかけようか、離そうか、とモジモジしている。
「わたしがあなたの立場でしたら、絶対に和則君を返すでしょうね。それが常識というものです」
 医師の言葉は有無をいわせぬ響きがあった。話はおわったのだ。もう、終りだ。…やはり……竹田医師のいうように、和則を……返そうか…?
 セロンは携帯を切った。
 このとき初めて、セロンは和則にまじまじと目をやった。彼が見たのは年齢不詳の、おそらく五十代初めと思われる小柄な痩せ男だった。無害そのものに見えた。すべての患者と同じく、青い病服を着ていた。汚い服だった。髪は一本もない。耳の回りにも後頭部にも一本もない。陰険そうな顔をして、ちいさな黒い目が印象的だ。和則の顔を特徴づけているのは、表情がまったくないことだ。目尻には笑いじわもなく、眉間にはしわ一本ない。まるで子供が描くような、のっぺりとした表情の顔だった。
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