渇望
何が起こったのかわからなかった、とか、避ける隙さえなかった、とか、理由をつけようとすればいくらでもあった。


でも、ここから奪い去ってほしいと心のどこかで思っていたのも本当だったろう。


ゆっくりと離れるそれ。



「送るよ。」


誰もがみな、臆病だった。


ジュンは決して好きだとは言ってくれないし、瑠衣だって引き留めたりなんかしないと思う。


あたしは汚い女だった。


流されてしまえば楽なことを知ってる一方で、何ひとつ手放そうとなんかしてない。


宝石箱の中身は全てまがい物で、例えばそこに本物が混じっていたとしても、あたしなんかじゃ見分けられるはずもない。


それさえ言い訳にして、黙ってジュンに手を引かれた。


いつの間にかあたし達はみな、誤魔化すことばかりに長けるようになっていたね。



「なぁ、さっきのことだけど…」


あたしひとりだけタクシーに乗せられ、ジュンはそこで初めて口を開いた。



「忘れてくれて良いからさ。」


じゃあ悲しそうな顔なんてしないでよ。


そう言いたかったのに言葉にさえ出来なくて、運転手に一万円札を手渡したジュンは、お願いします、と言う。


扉が閉まり、タクシーは走り出した。


もうどれくらい自分の部屋に帰っていないのかさえも、定かではないけれど。


吐きそうで、泣きそうで、もう本当に頭の中はぐちゃぐちゃだった。


結局告げたのは、瑠衣のマンションの名前。


本当は、こんな状態で会うべきではなかったのに。

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