花は踊る 影は笑う~加賀見少年の非凡なる日常~
紙コップに向かい大声で名を名乗り、すかさずそれを今度は耳にあてがい返事を待つ。 紙コップの底には細い糸が繋がっており、ポストの奥に開けられた目に見えるか見えないかほどの小さな穴から室内へと続いている。
いわゆる糸電話というやつだ。
「くそ……いないのかよ」
携帯電話が普及しているこの昨今にまさかの糸電話。
しかもドアを挟んだ反対側には未だ一般の場所ではそう見かけることはない音声認証装置なんてハイテクなモノを取り付けておきながらのアンバランス。
何故普通にインターホンじゃないんだ。
いつもながらそんな思いが湧きあがり、苛立ちを更に上乗せする。
暫らく待っても返って来ない返事に諦めの溜息をつくと、千歳は紙コップをポストへ戻し額に浮き出た汗を袖口でぐいと拭った。
じっとしていても汗が滲む。
ただでさえ気温が高いのに薄手の長袖パーカーを羽織っているのだから当然だ。だが、生身の肌を露出したまま入るにはこの建物は危険すぎる。
「よし、行くか」
パーカーのポケットから取り出したゴム製の手袋を装着。腰にチェーンでぶら下げていた鍵束から一本を取り出す。それをゆっくりと差し込むと、いとも簡単に鍵は開く。
鍵を開けること自体は簡単なのだ。認証出来ずともこの建物専用の鍵はあるのだから。
問題は鍵を開ける事より、建物に足を踏み入れるほうにあるのだ――
心を決めて大きく息を吐き、予め用意していた道具を片手にもう片方の手をドアノブにかける。
この建物を良く知らない者なら、この時点でえらい目に遭っている……ゆっくりとドアノブを回し手前に引く。