多幸症―EUPHORIA―
 三十分後、バスは近くの海のバス停に到着した。

『うーん、着いたぁ』

 森野はバスから降りるなり、伸びをしながら声を上げた。
 ぼくは道路際から砂浜に足を踏み入れ、空を見上げた。そして、その下に広がる海に顔を向けると暫く声を失った。

 海も空の青さもあきれるくらいに澄んでいる。空から覗く太陽は泣けるくらいに眩しく輝き――そして、砂浜は果てしなく続いていくかの様に思えた。

『まだ朝早いし、人少ないね。良かった』

 森野が言うように、砂浜には人の姿はまばらにしか見られなかった。

 ぼくが笑顔で頷くと、森野は満足したかのようにひとり砂浜を掛けて行ってしまった。

 ぼくは海の香りを感じながら、砂浜を歩いていく。風が掬ったら、瞬く間に消えてしまいそうな細かい砂粒。まさに、遥か遠くの、直ぐにでも悠久の彼方に旅立ってしまう記憶の如く。脆く弱い集合体。まるで、いまのぼくと同じだ。

 このまま、この空気にさらわれて何処かに溶けてしまえたら、ぼくの歪んだ心は救われるのだろうか。

 そんな馬鹿なことを考えて歩いている内に、ぼくは無意識に一人の人影を眼で追っていた。  焦点が定まるに連れ、それは小学生の少年だと分った。彼の身体からはランドセルが少し覗いていた。まわりには、彼と同じような子供たちが水着姿になり、波打ち際で大騒ぎしている。その中で、彼だけは膝を抱えて地面に座り、まるで恨みがあるかのように眼を見開いて海を睨み付けていた。

 ぼくはその少年に興味を覚えた。

『泳がないのか?』

 ぼくは少年の近くまで歩いてゆき、砂浜に腰を下ろした。けれど、少年は瑠璃色の透徹った硝子玉のような綺麗な眼で、ぼくに一瞥をくれただけで一言も答えなかった。  暫く、夏を感じながら待っていると、ぼくはあることに気付いた。

 その少年は、ぼくの顔を見て何度も何かを話したそうに口をパクパクさせている。
 その時、ぼくの脳裏に一つの不安がよぎった。

『もしかして、話せないのか?』


 その刹那、少年は人魚姫から声を奪った魔女の如く、ぼくの声をも失わせたのだ。




(『多幸症―EUPHORIA―③』橘亜草の場合(四)/了)
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