多幸症―EUPHORIA―
 暫く、時間が止まってしまったかに思えた。ぼくは青息を押し殺して、一気に海底に沈んでゆく重苦しさを感じた。けれど、少年はそんなぼくを見つめ、微かに白い歯が覗く口許に楽しそうな笑いを含ませた。

『やっぱりそう思った?』

 そして突然、少年は平然と他でもない口で答えた。
 ぼくは偽りとはいえ、長年俳優という職業をしてきたにも関わらず、演技で見事騙されたのだ。

『上手だったよね』
『海で通行人からかっているのか。随分、質の悪い悪戯だな』
『ちゃんとした勉強だもん』
『話せないふりが?』

 半ばからかうような口調で言うと、少年は優しい笑みを浮かべた。

『来月さ、劇があるんだ。ぼくが主役なんだ。そうだ、お兄さんも観に来てよ』

 そうか。随分、可愛らしい同業者だ。
 少年はランドセルから劇の台本を取り出すと、ぼくに得意げに見せた。タイトルには見覚えがある。物語の内容は、自分の声に嫌悪感を抱いている少年の話だ。ある日、好きな女の子の前で、友達に声のことで笑われてしまい話せなくなってしまうのだ。

 自分への嫌悪感――インフェリオリティ・コンプレックス、劣等感。  言い方は様々だが、それはすなわち心の歪みだ。
 自らの強い情緒により捩じ曲げられた、観念や記憶の塊。けれど思うに、人とは誰しも多少なりとも歪んでいるものだろう。美しく歪めば愛情に、醜く歪めば憎しみに変わってゆく。
 けれど、それが自分の心を圧迫するほどにいつしか形を変えてしまったのだ。
 そういう意味の歪みでは、いまの自分と心境として似ているかも知れない。そう思いながら、ぼくは自嘲気味に笑いを零す。

『見に行くよ』

 ぼくは薄い笑いを浮かべながら、少年に台本を返した。

『本当?』

 少年は無邪気に喜んだ。
 そして、ぼくに構わずまた台本を読み始めた。その眼には純粋に演技する喜びが溢れ出していた。



(『多幸症―EUPHORIA―③』橘亜草の場合(五)/了)
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