幻想
「いや、そんなことは…」

反射的に口から出たのは否定の言葉だった。

でも、それは虚に響いた。

「ムリしなくていいのよ」

やさしい口調。

真也は思わず涙ぐみそうになって、ぐっと上下の歯を噛み合わせた。

「ねえ、おじさん。これあげる」

少女が、ガラゴロ音を立てて、ポケットから缶を取り出した。

ドロップの缶。

真也はパッケージの古めかしい絵に惹かれた。

今でもこんなものが売っているんだな。

「はい、どうぞ」

少女が缶ごと手渡してくれた。

つい受けとってしまったものの戸惑う真也。

そんな真也に、少女はさらに戸惑うようなことを言った。

「それを舐めながら私のことを思い出してね」

「?」

「じゃあ」

少女はちょうどティッシュを配り終えていたらしく、そのまま立ち去ろうとする。

「君、待って」

真也が呼び止めた。

「なあに?」

「名前…君の名前を教えてくれないか」

真也は言いながら、自分で呆れていた。

こんな見ず知らずのオヤジに教えてくれる訳無いじゃないか。

それに、きいてどうしようって言うんだ。

「人に名前をきく時はまず自分から…じゃないの?」

からかうような少女の口調。

「俺は…」

「待って! 言わないで」

「え?」

「私はレイ」

「レイ…」

「本当の名前じゃないわ。 だからおじさんもウソの名前を教えて」

「俺は…桜木だ」

レイが、なぜかびっくりしたように目を見張った。

「どうした?」

「ううん、何でもないわ じゃあね、桜木さん」

「ああ、またな」

真也は手を振った。

また。

また近いうちにレイに会いたい、と桜木真也は思った。

そう。桜木は彼の本名だった。

ガラゴロガラゴロ。

真也は缶をゆすって、その音にしばし酔いしれた。
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