スキ
歯ブラシ。
髭剃り。
着替え。
コンタクト。
ヘアスプレー……

案外、荷物少ないな。

俺は身の回りの物をでかい鞄に詰め込むと

「ヨイショッ」

それを肩にかけ、立ち上がった。

そして最後にポケットから合い鍵を取り出す。

「……世話になったな」

当たり前のように持ち歩いていた鍵が、今、なぜか手の平の上で、ずっしりと重く感じる。

その存在の大きさを改めて知らされた気がした。

今更……だな。

何もして来なかったのは俺だ。

あいつに甘えて、何もかもやってくれるあいつを当たり前と感じて。

でも、何したってあいつは俺から離れないって馬鹿みたいな自惚れもあった。

なんだかんだ言っても、あいつには俺しかいないだろって。

どこにも連れて行ってやらなかったし、家の事はまるで手伝わなかった。

仕事で忙しいのはお互い様なのに、あいつを労る事もなければ、話を聞いてやろうともして来なかった。

『会社の先輩に、プロポーズ……された』

そう、あいつが言ったのは昨日の事。

瞬間、俺の頭の中に張り巡らされていた糸がプツンと音をたてて切れたんだ。

真っ白って、こういう事かと、初めて知った。

けど、俺の口から出た言葉はなぜか

『良かったじゃん』

で。

あれは、今思えば、精一杯の格好つけ。

男としてのプライドを守る事を最優先した俺には、もう、あいつを引き止める資格なんかないんだ。

そして、ここにいる意味も、なくなった。

元々あいつの部屋だったこのアパートに、なんとなく転がり込んだだけの俺なんだから。

そして、大切にする事もしなければ、あいつを安心させる言葉ひとつ言ってこなかった。

あいつはいつだって俺の隣で『好きだよ』と、笑ってくれていたのに。

あいつの作り出す空気が心地好くて、柔らかくて。

気づいたら俺は、釣った魚に餌をやらないどころか目もくれず、自分だけどっぷり甘い汁につかったままだったんだ。

バカ……だな。

首を小さく左右に振ると、俺は真っ直ぐ玄関に向かった。

そこに、いつも履いてるスニーカーと、綺麗に磨かれた革靴を見つけて、ひとつの忘れ物に気づく。

「あ……スーツ」


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