僕らのままで
 波流が僅かに動くと、微かにレモングラスの香りがした。彼女の、お気に入りの香水の匂い。初夏の日溜まりのような、芳ばしさを持っている。

 その香りに誘われて、僕はおずおずと波流の頬に触れた。

 マシュマロのような、ふんわりした感触。

 僕の指が触れた瞬間、波流は怯えたように身を強ばらせた。まるで、小さなウサギだ。

「…さっき。油、撥ねたの??」

 彼女から手を離した時、ようやく、僕の唇が言葉を生み出してくれた。

「さっき?──さっきって…ぁぁ…」
 波流は思い出して、ちょっぴり笑った。
「ありがと。心配してくれたんだよね」

「大丈夫だった?」

「うん、大丈夫。ちょっと熱かったよ。最初はね。けど、…だけど───」

 波流は、急に口籠もってしまった。

 その先に何を言わなければならないか、彼女は気付いたのだ。何か言いかけていた唇は、その言葉を飲み込み、きつく結ばれてしまった。その代わり、白い頬がうっすらと桃色を帯びた。


「だけど?」
 僕は聞き返した。


 言ってしまってから、『しまった』と思った。どうして、こんな意地悪なことをしてしまうんだろう、僕は。


「…だけど…」
 波流は、真っ赤になって俯いてしまった。
「あの……っ」


「ごっ、ごめん。なんでもないよ」
 僕は、慌てて誤魔化した。

 そして、遠い湖の向こうへと視線を送るふりをした。

 ──そうでもしないと、波流が可哀想だった。彼女の緊張は、1メートル程離れて立つ僕にも、ビンビンと伝わってきたから。


 仲間の前で堂々としていることも出来ないくせに、頬に触れるなんて大胆なことをしでかした自分が、ますます許せなくなった。


< 4 / 26 >

この作品をシェア

pagetop