妖不在怪異譚〜船幽霊〜
客船の紳士
波は激しく、救命ボートを叩きつけた。
…暗く何も見えない海面。
(このままでは、この舟すら沈むのも時間の問題だな。)
礼一(れいいち)は押し寄せる波にめまいを覚えながらも、
振り落とされまいと必死に船縁にしがみついていた。
…時にして大正。
横浜で貿易商を営む彼は、買い付けのためヨーロッパを訪れた。
しかし帰路の途中、乗っていた船は嵐のなか、落雷に遭い炎上。
かろうじて救命ボートに飛び乗ったのだが、今度は闇が彼らを襲った。
…どちらが北か南かも解らない。
いくら目を凝らしてみても、黒い影がまるで緞帳(どんちょう)のように遮っている。
ボートは他にも数隻浮かんでいるはずだが、それすら確認もできないほどだ。
礼一の脳裏に、横浜に残してきた妻の顔がよぎる。
「こんなことに、なるなんて…。」
彼は悔しさのあまり、唇を噛み締めた。
…こんなところで終わりになる前に、もっと伝えておくことがあった。
だがその叫びすらも虚しく、波が彼に襲いかかる。
ボートに乗る誰もが、絶望の中に打ちひしがれたとき、
…彼らを光が照らした。
それはまるで月明かりのような、淡くやわらかな光だった…。