妖不在怪異譚〜釣瓶落とし〜
桜の木と事務員
文久二年創業という、老舗の蕎麦屋がある。
かつては深川の裏通りにあった店だが、その味が評判となり地元に愛されてきた名店だ。
…早織はそこの次女として生まれた。
地元の小・中校を経て、高校ではバドミントン部に所属。
…全国大会までいったこともある。
大学もまた地元を選び、文系の外国語科を卒業し、商社に就職。
今に至るわけであるが、その商社も先月で退職を決めてきた。
「頑張らなくちゃね。」
…女子としては、やや殺風景なフローリングの部屋。
早織はそう言って、昨日会社の同僚から貰った花束を見つめた。
…この五年間。
辛くなかったといえば、嘘になる。
相変わらずの不景気の波は会社にも押し寄せ、仲の良かった派遣社員も次々と解雇させられた。
取引先の倒産に、ボーナスのカット。
…何度、辞めようかと思ったことか。
しかしそんなときに、ある人と運命的に出会った。
『傘を間違えた』というのがきっかけだったが、陽気な彼はいつも励ましてくれた。
「止まない雨はないよ、いつか晴れるさ。」
そんな彼も会社を辞め、今は別の夢に向かって頑張っている。
「私も頑張るわ。」
自分に言い聞かすように、早織はそこから立ち上がった。