妖不在怪異譚〜釣瓶落とし〜
…どれくらい居たのだろう。
「おっと、もう行かなくちゃね。」
早織は気づいたように扉を閉め、南京錠の鍵をかけた。
箱を両手に抱え、裏庭に踏み出そうとしたとき、
…ヒラリ。
小さなものが一枚、目の前に落ちてきた。
それは薄紅色の花びらで、裏庭に咲く桜の木から吹いてくる。
「あら。」
彼女は足を止めて、その桜の木を見つめた。
…屋根ほどの高さのもので、幹もさして大きくはない。
満開に咲くそれはしかし、早織にとって思い出の桜だった。
…昔、彼女には二つ年上の兄がいた。
優しい妹思いの兄で、両親が店に出て忙しい間、よく一緒に遊んでくれた。
勉強もよく見てくれたし、クラスのいじめっ子からかばってもくれた。
「早織を泣かす奴がいたら、俺が承知しないからな。」
それがいつもの口癖だった。
…しかし『いた』というのは、過去形である。
その優しかった兄が交通事故で亡くなったのは、早織が小学生のときだった。
…よくある自転車と自動車の衝突事故。
「お兄ちゃーん、お兄ちゃーん。」
お葬式のときに、泣き喚いたのを覚えている。
悲しみにくれる家族が、兄を偲んで植えたのが、この桜の木だった。