妖不在怪異譚〜釣瓶落とし〜
それから早織は、ことあるごとに兄の木へと語りかけた。
中学校を卒業したことや、大学に合格したこと。
お母さんに叱られたことや、お父さんに誉められたこと…。
「あのね、お兄ちゃん。」
そして早織は、いまもまた語りかける。
「私、結婚するんだよ。前に話したよね。同じ会社の営業の人とだけど。」
少し照れた彼女へ、応えるように桜の花びらが舞う。
「彼ね。会社を辞めて、いまは蕎麦屋さんで働いているの。いずれはウチのお店を継げるようになりたいんだって。」
覗きこむように、その幹を見つめた。
「お兄ちゃんはどう思うかな?。」
桜の木は何も言わなかったが、しかし彼女には確かに聞こえた気がした。
…早織が選んだ人なら間違いはないよ。だけど、泣かされたら、すぐに俺に言えよ。
「ありがとう。お兄ちゃん。」
彼女は微笑みながら、目にうっすらと涙を浮かべた。
…気づけば表通りから車の音がして、母親の呼ぶ声が聞こえてくる。
「早織、まだなのー?。」
「はいはい、はーい。」
早織は袖でまぶたを拭いながら、家の中へと戻っていく。
そんな彼女の後ろ姿を、桜の木は優しく見守っていた。