妖不在怪異譚〜釣瓶落とし〜
…すでに陽は落ちかかり、空には白い月が登っている。
それから隆介は、靴を脱ぎ捨てて裸足になった。
そのまま木の幹にしがみつくと、ひんやりとした感触が伝わってくる。
「懐かしいな。」
彼はニンマリと笑って、その枝へと手を伸ばす。
…本当に懐かしい。
まだ登れるかと思ったが、三つ子の魂なんとやらで、まだ忘れてはいないようだ。
隆介はスルスルと登っていくと、太い枝の上に腰を降ろした。
…その根元に小さな榁が空いている。
「この穴も昔はもっと、大きく感じたものだけど。」
言いながら彼は、上着のポケットから、小箱を取り出す。
「悪いけど、またこの箱を預かっていてくれないかな。きっとまた受け取りにくるからさ。」
…いつか、また来よう。
そう心に近いながら、そっとそれを置いた。
『榧の木と軍人』終。