迷宮の魂
「佐多和也は、捜査の網を掻い潜って何年も潜伏してたんだ。今の今まで一度として姿を現さずにな。俺達の想像の範囲を超えた処で奴は息を潜めていたんだ。もう一度、謄本からガイシャの身許、親族、ここ何ヶ月間かの足取りを調べてくれ」
前嶋の言葉の端々に、どんな些細な事も見逃すなという厳しさが込められていた。
被害者小野美幸の検死結果が前嶋のデスクに届けられた。
死因は、鋭利な刃物による、左胸部大動脈の切断による出血死。
傷は一ヶ所で、現場に残された包丁と、その傷痕は一致した。凶器がはっきりと特定され、そこにあった指紋は佐多和也のもの。彼の犯行を疑う者は誰一人としていない。
死体には、凶行を受けた際に多く見られる、抵抗の跡が殆ど見られなかった。僅かに何ヶ所か擦過傷が残っていたが、検死医の所見では、この程度の擦過傷なら刺されて倒れただけで付くものだという。現場検証でも抵抗の形跡が見受けられないと確認されていたが、となると、小野美幸は刺される寸前まで自分が殺されるとは思っていなかった事になる。
たった一突き。
ガイシャと佐多和也の間にどういうトラブルがあったかは想像もつかないが、彼の過去の犯歴を見ると、少し違うように感じる。漠然としか浮かばないのだが、前嶋はその辺りが納得行かなかった。
佐多和也が父親を殺した時は、滅多刺しにしている。しかも、居合わせた自分の女にも凶行を加えようとした。当時の調書からでも彼の激情振りが判る。
二度目の時は、被害者男性に何度も暴行を加え、揉み合った際に包丁で刺している。息があった時に供述していた被害者の言葉を借りれば、もし逃げていなければ、間違いなくその場で滅多刺しにされていただろう。
小野美幸の検死所見にはもっと驚くべき事が書かれてあった。
覚醒剤使用の痕と見られる注射痕が、足首に有りという所見。
更には、事件当日も使用していた可能性が有りとする、新しい注射痕有りの文字が、いよいよ事件の複雑さを感じさせた。