迷宮の魂
「チィちゃん、走っちゃ駄目よ」
自分の愛娘をそうやって叱ってはいるが、元気そうに走り回る姿を見る事が出来ている事に、心から感謝をしていた。
あの人が居なかったら、私達母娘は、こうしてこの世に居なかったかも知れない。
「早くこっちへいらっしゃい。ここは病院なんだから、走ったりしちゃいけないの。わかった?」
3歳になったばかりの千佳子は、母親の朋美に手を引かれ、診察室へ入って行った。
「チィちゃんこんにちは」
「こんにちは」
中年の医師から自分の名前を呼ばれ、照れながら返事をした。
娘の服をたくし上げてやり、ガーゼの交換がし易いように背中を向けて上げた。
「おう、きれいに治ってきたねえ。もうお薬も滲みないし、痛くないでしょ?」
「うん」
「これなら痕も残らないね」
医師の言う言葉を聞いて、朋美は安堵の表情を浮かべ、何度も頭を下げた。なんといっても女の子だ。この子の将来を思えば、生涯残ってしまうような痕にだけはなって欲しくないと心配していた。
「私に礼を言うよりも、助けてくれた人に感謝だよ」
そう言われて、はいと頷いた。
「しかし、本当に何処へ行ってしまったんだろうなあ」
一ヶ月前、自宅兼店舗が火事になり、二階で休んでいた朋美と千佳子を、燃え盛る火の中から助け出してくれた恩人は、この病院に運ばれて十日目に姿を消した。
朋美が住んでいた新今宮の商店街から直ぐ近くの西成で、寝起きをしていた人らしいとは聞いていた。
自分達母娘を助けてくれた時に、その人も火傷を負った。病室に礼を言いに行った時には、顔中包帯を巻かれていた。後で具合を看護師に聞いたら、かなりの重症らしく、顔に尻と腿から皮膚を移植しなければならないだろうと言った。
手術は成功したようだが、皮膚の移植は今後も重ねて行わなければならないらしい。
それなのに、その恩人は忽然と姿を消してしまった。
「チィちゃん、もうすぐお誕生日だね」
医師がそう言うと、千佳子は嬉しそうに笑った。