迷宮の魂
男は視線の先にある、くすんだ灰色の建物を眺めていた。
この街に流れ着いてから、幾度となく歩いたが、ずっと遠目に眺めるだけだった。
今、そこへ引き摺る足を運んでいる。
25年前、あそこに一瞬だけ夢を見られた場所があった。
長い人生の中で、それは確かに一瞬と呼べる程に、短いひと時であった。
自らその場所を棄て、こうして彷徨っている。
懐かしさとは違う、胸の奥が締め付けられるような痛い感覚が身体の中を埋めていた。
川沿いの道を歩き、その建物に近付いて行くと、遠くからはくすんだ灰色に見えていたコンクリートの色が、思っていた以上に汚らしくなっていた。
それが、過ぎ去った年月を嫌でも男に感じさせ、居た堪れなくさせた。
一階の郵便受けを覗こうとし、辺りに人が居ないかどうかを確認した。
記憶のままだ。
壁を無数に走るヒビ。小便臭い匂い。落書きの跡。壊れかけの郵便受け。
509号室と書かれた郵便受けの名前を見る。
そのままだった。
男は、踵を返し、その建物を一度も振り返る事無く、後にした。
街並みは大きく様変わりしていた。記憶にあったビルも店も、この25年間で消え去ってしまったかのように、まるで違った街になってしまった。
だが、男はこの方が良かったのかも知れないと思った。
記憶のままの街並みを見てしまったら、きっと、生々しい感情が吹き出てしまい、それを自分で制御する事など出来なかったかも知れない。
記憶のままなのは、骨の中まで凍りつくような寒さだけ。
それでいい……
それだけで良いのかも知れない。
男の足は幣舞橋に向かい、重苦しい雲の手前に見える花時計を目指していた。