迷宮の魂

 血だらけでこの世のものとは思えぬ形相の中に、微かに光を抱いた眼差しがあった。

 右目だけが、哀しげに尚美を捉えている。

「救急車を呼びます……」

 尚美が消え入りそうな声で言うと、男は再び首を振った。そして、ざっくりと切れた口を動かし、聞き取れない程に小さな声で二言三言呟いた。

「え?何ですか?怪我が酷いようですから、電話しますね」

「いいんだ、尚美ちゃん……」

「……!?」

 突然、目の前の男が自分の名前を口にした。

「このままで、いい……」

「おじさん、今、私の名前を……」

 男は深く息をし、顔をしかめながら立ち上がろうとした。瞬間、右足がガクッと崩れ、停めてあった車のボンネットに身体をもたれた。

「救急車が厭なら、せめてその怪我の手当てをしないと。その後で病院に行けば」

 尚美は男の腕を取り、自分の家の方へ歩き出した。

 腕の怪我がかなり酷かったのか、男は尚美に掴まれた時に痛みで顔を歪めた。

 男の身体は、背が高い割に思ったよりも軽かった。幾分身を屈めた男の脇の下に尚美は自分の肩を入れ、担ぐようにして家の玄関まで来た。

 鍵を取り出そうと、一旦男から身体を離すと、男はその場から逃げる素振りを見せた。

「何処へ行くんですか。そんな怪我をしていて歩ける訳ないじゃないですか」

 普段、他人に声を荒げた事などの無い尚美は、自分でも驚く程大きな声を上げていた。

 男はまるで抵抗するかのように身を捩り、

「俺は……ここに、ここに来ちゃいけないんだ……」

 と言った。

「とにかく、今はそんな事を言ってる場合じゃないでしょ」

 尚美は、無理矢理男を玄関に押し込んだ。幸い、祖父も祖母も二階の部屋で休んでいるらしく、玄関先のやり取りに気付いていないようだ。

 その方が好都合だ。浮浪者で、しかも大怪我をしている人間を家に上げていると知れたら、年老いた二人の事だから卒倒してしまうに違いない。

 男が出て行かないように注意をしながら、尚美は居間から救急箱を持って来た。





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