天国の丘

 マーサの語り口は、重かった。

「それでも仲間達のバックアップもあって一度はこの世界に戻って来たんだけど……。
 もう、昔のような音が出せなくなったって……」

 その後の言葉を待っていたら、啜り泣く声がマーサの口元から小さく零れた。

 レナが僕の袖を引き、目で合図した。

「今夜はもう遅いから、僕達、帰るよ。お休みマーサ」

「あぁ……」

 人通りの絶えた駅前の通りを、自転車を押しながらレナと並んで歩いた。

「何だか悲しい事を思い出さしちゃったのかな……」

「コーイチが思い出させたという訳じゃなく、今夜は自分から思い出したかったんじゃないのかな」

「そうなのかな」

「そんな気がする。マーサにとって、今夜はきっと何か意味がある日で、だから『サッド・マン・スリー』のレコードだって掛けてくれたんじゃないかな」

「T・Jって、今幾つなんだろう……。
 それよりも、今迄もマーサと会ったりしてるのかな?」

「マーサの話しからすると、五十歳より下って事はないと思うな。
 コーイチがイヴの前に、店の前でT・Jと出会ったって事は、多分、ちょくちょく顔を出していたのかも知れないね。
 昔、恋人同士だったりして。伝説のジャズプレイヤー、T・Jか……何だか、ちょっとドラマティックな感じね」

 話しながら歩いているうちに、彼女のアパートの近くに来た。

「じゃあ」

 と、唐突に彼女が別れの言葉を口にした。

 もう少し、二人だけの時間を惜しむようなそぶりでも見せてくれたらいいのにと思ったけど、彼女にその思いは伝わらなかったみたいだ。

 それでも、別れ際に見せてくれた笑顔に、多少は救われた。

 形の良いお尻が、小気味良い程に左右に動いている後ろ姿を目に焼き付け、僕は回れ右をして自分のアパート迄自転車を漕いだ。



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