天国の丘

 二月一杯で羽村の工場を辞める事にした。

 元々好きで選んだ仕事じゃなかったから、辞めるといっても、特にこれと言って感じる事も無かった。

 辞めて少し嬉しい事がある。

 それは、油まみれにならなくて済む事だった。

 一日8時間から、長い時には12時間、油まみれになっていると、自分の身体に臭いが染み込んでしまったようで、それが前々から気になっていた。

 爪の間は、どんなにブラシで擦っても黒く汚れ、工業用の強力な石鹸で毎日手を洗うから、がさついた肌になっている。

 きっとその事を無意識のうちに恥ずかしく感じていたから、女の子には積極的になれなかったのかも知れない。

若かったから、職業に貴賎無しという事をこの時の僕は残念ながら判っていなかった。仕事にかっこよさを求めていた。

 汗を流す事の尊さ、汚れる事の気高さを判っていなかった。

 羽村の工場を辞めたのは、別に叔父の言葉に従ったという訳ではなく、別な思惑があったからだ。

 新しい僕の雇い主は何とマーサなのだ。

 働いていた黒人のバーテンがアメリカに帰る事になったので、誰か代わりは居ないかと捜してたところへ、僕が自分を売り込んだという訳だ。

 高校生の時に珈琲ショップのウエイターをバイトでやった事があるから、客商売は満更嫌いでも無い。

 と言うより、『サッド・マン・スリー』なら嫌いになる理由が無い。

 毎晩いかした音楽と、いかした会話に囲まれ、そして旨い酒と出会える。

 それらを全部足しても足りない位、大きな理由がレナの存在で在る事も動かし難い事実ではあるけれど。




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