天国の丘

 鍵は掛かっていなかった。静かな店内をそっと覗くと、カウンターの中から中年の女が声を掛けて来た。

「悪いねボウヤ、ここは酒を売る店なんだ。コーヒーなら外の自動販売機で買っておくれ」

 眠た気な声は少しばかりハスキーな感じで、妙に色っぽく感じた。

「あのぉ、ビールを売って欲しいんですけど。それと、もし煙草も有れば嬉しいんですが……」

「残念だね。見ての通り、営業時間は終了なのさ」

「店の中で飲むんじゃなくて、外で待ってる人にビールを奢る事になっちゃったんです」

 入口で出会ったハミングの上手な浮浪者の話しをすると、彼女はオーケーと言って、カウンターにビールを二本置いた。

「一本はアタシからの奢りだと彼に伝えておくれ」

 彼の事を知ってるようで、落ちかけた厚化粧の顔に、慈しみに似た笑顔が浮かんでいた。

 代金を払い、ビールと煙草を両手に持って階段を昇り、表に出てみると、彼の姿は無かった。

 雪は止んでいた。

 ほんの少しばかりアスファルトを湿らせただけの雪は、不思議な出会いを神様が演出してくれた舞台効果だったのかも知れない。

 仕方なく店の方に戻り、中年女に彼が消えた事を伝えると、カウンターの席を指差した。

 両手に持っていたビールをどうしようかと思いあぐねていたら、それを察したかのように、

「あんたが飲みな」

 と中年女が言った。

「アタシはマーサ。ボウヤの名は?」

「沢田浩一」

 何処から見ても日本人にしか見えないのに、どうして外人みたいな名前なのと聞いたら、昔、米軍のキャンプを歌手として回っていた時に、本名のマサ子を縮めて、マーサと呼ばれるようになったのだと言った。

 以来、三十年近くその名で呼ばれてるという。

「学生さんじゃなさそうだね」

「羽村のベアリング工場で働いてます」

 二言三言、言葉を交わしながら、店の中を見回した。







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