その日、貴尋は機嫌が悪かった。運の悪いことに由文は風邪をひいて激しく咳込んでいた。
それが癪にさわったらしい。貴尋は大きく振り上げた手で、由文の側頭部を床に叩きつけるように打ち付けた。
床に転がった由文の耳からは血が流れ出た。
由文の瞳は揺れて焦点が定まらずにいるのに、俺は眼が合った気がして思わず眼を背けた。なぜ俺はこうなる前に止めなかったのだろう。
俺だけだった。
頻繁に西本宅に出入りして、日常的に行われている暴力を知っていたのは俺だけで、止められるのも俺だけで、止めなければならなかったのも俺だった。
直接自分がくだしたこと以外であれ程に罪悪感を感じたのは、あれっきりだった。

「あの時さぁ、鼓膜破れたんだよねぇ。治ったけどちょっと難聴になっちゃった」
童顔で昔の面影が濃く残って居るが、大人しくもの言わない人形のような雰囲気とはかけ離れた。
あんな環境で育ったのに、随分と明るい人間に育ったものだ。俺の記憶にはない鼻の辺りのそばかすも、笑うと目立つ八重歯も今の愛嬌のある西本に似合っている。
無性に謝りたくなった。明るく笑う今の西本にとってはそんなの俺の自己満足に過ぎなく、過去を掘り返されるだけの嫌な行為かもしれないが。
「あのねぇ、せんせ」
急に何か思い立ったように西本の顔から笑みが消え、俺は怯えた。罪を問われる気がした。
「なんだ」
「話したいことあるんだけど、いいですか?」
あの時の揺れる瞳にとうとう直視された。西本は変わったと思ったが、その瞳は紛れもなくあの時と同じものだった。
眼をそらすつもりはないが、そらそうにもそらせないくらい、不思議と惹きつけられる眼。その眼にとらえられるのは一種の快感だった。

下校する生徒達の声が静けさを和らげてる気がした。
狭い部屋で西本と向かい合う。
「散々殴られといて馬鹿みたいだけど、俺、貴尋と居るのが自分でも不思議なくらい嫌じゃないんだ。殴られて、痛いとは思う。それをなんの疑問には思わないけど。俺は高校入ったって今まで通りでかわまなかったんだけど、友達が心配してくれて一人暮らし始めたの」
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