残り香
 店を出すならここが良い。
実は結構気に入っている所があるにはある。
ただ、敷金等はなんとかなっても肝心の器具がそろわなければ話にならない。
内外装は渡瀬さんのところの廃材などを使い、
なんとか手を入れることができる。
そんな事を考えていたことはある。
「台車もってこいや」
処分してしまうにはもったいない良いものばかりだ。
「いつもありがとうございます」
渡瀬は無言で鏡に向かい、
髪を気にしているそぶりをする。
最近ちらほらもみあげや生え際に白い物が目立つ。

 少々ポッチャリした身に、紺色の制服のベストが苦しそう。
ボディスーツでしっかり締め付けているのだろうか。
大金を扱っているのであろう手には高価そうな指輪が見える。
お札を数える指使いは手慣れたものだ。
形式どうりの重要事項の説明を受け、サインをした。
 以前所有していた自宅を立ち退く際、
「引っ越し代」
だと言って妹が手渡してくれたものを敷金等とし契約を済ませた。
いつか返さなければと使わずにとっておいたものなのだが。
普段、妹とはあまり会話を交わすことは無くなっていた。
「兄貴のためじゃない、二人の子供のため」
そうとだけ言って置いていった。
子供のいない彼女は、とっても二人を可愛がってくれていた。
今も、なにかと気に掛けていてくれる。
 家や土地、店までも手放す結果となったある契約を思い出すと、
実印の扱いに不安を感じてしまう。
また、取り返しのつかないことになるのでは無いかと。
特に不動産関係には十分以上の注意が必要だ。
注意をしてもし過ぎということは無い位に。
「人生の大切な勉強だった」と母さんに言われた。
いくら授業料とはいっても、あまりに大き過ぎだ。
今は冷めてしまった出されたお茶を飲み干し、
渡された物件のキーを手に不動産屋を出た。
 裏の勝手口から入る。
木造、築30年超。確かに古い。
しかし、使われている木材の質は申し分無い。
一カ所どうも空気の流れが気になる箇所がある。
原因は解らないのだが。
「好きに使いなさい」
老夫婦の大家さんは言ってくれてる。
借り手がいなかったら取り壊しを考えていたという。
改装等手を加えることについては特に問わないとのことだ。
人生のやり直しをここから始めよう。
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