桜の記憶
 初めて彼と言葉を交わしたのは、
半年ほど前だ。

いつものように小走りに、
このフェンスの脇を通り抜けて行こうとした時、
私は小石につまづいて転んでしまった。

ぶぎゃ、っと豚の様な声を出して地面に寝そべった私に、
クスクスと鈴が鳴るような小さな笑い声を投げかけてきたのが秀二さん。


「何ですか。 笑うなんてひどい!!」

「ごめんごめん。あまりにも良い音だったから」


唇をかみしめながら顔をあげた時、
笑いをかみ殺す秀二さんの顔が見えた。

それは白くたおやかで、
男の人なのに儚げだった。

この戦時中に、
若い男の人がふらふらと姿を見せれば何を言われるかわからない。

『動けるならば戦地へ行け』と言われて当たり前なのだ。

だから、ここが病院の敷地の一部で、
彼が病弱そうに見えるとはいえ、
こんな風に男の人と出会う事があるなんて思ってもみなかった。


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