桜の記憶
「この木は桜の木なんですよ」
「へぇ」
私はもんぺの裾を払った。
転んだ拍子に泥が付いている。
また洗濯物を増やしてしまったことが憂鬱だった。
「とても綺麗なんです。誘われるように」
「へぇ」
「見れるといいですね」
「は?」
この時季節は秋。
春の桜の話題なんて、まだまだ先の話だ。
どこか時空さえも超越しているような彼に、
私は怪訝な表情を見せた。
「おかしいですか?」
その視線に気づいたのか、
彼は私をまじまじと見る。
「呑気……な事をおっしゃるな、と思って。
いつ戦局が悪化するか分からないのに、桜の話なんて」
「そうですね。
僕はおそらく、非国民と言われても良いくらい、
自分の事しか考えていないから」
悪びれもせずそう言う彼に、私はやきもきした。
そんな事、誰かに聞かれでもしたらどうすると言うのだろう。
この時代、国を、天皇を否定するような事は何一つ言えなかった。
その一言で人生が終わるかも知れないほど、危険をはらんでいるのに。