マヨイガの街
「桃源郷の話というのは……なんでしょうか?」

私は先刻、侍が口にした言葉がどうしても気になった。


桃源郷とは、武陵桃源とも呼ばれ、

晋の国にあったとされる仙境であり、
漁師の男が迷い込んだ山中で発見し、もてなしを受けたという桃の花が咲き乱れる理想郷である。

その場所は、人の世に戻った男が再び訪ねようとしても

人生においてただ一度しか訪れることは叶わなかったという。


転じて、仙人の住む俗世を離れた世界を指す言葉としても用いられるが──


私の口よりその言葉が発せられた瞬間、朔太郎の表情がさっと曇った。

「ひょっとして……」

桃源郷の伝説を思い浮かべながら、私は首を傾げて朔太郎を見上げた。


「朔太郎様たちが住まう、天狗の世界のことなのでしょうか」


この侍たちは、烏天狗から天狗の世界についてあれこれと聞かされていて、

それは朔太郎の言う、天狗の掟とやらで人間に伝えることが禁じられている、

とこういうことなのではあるまいかと、私は考えたのだ。


朔太郎はハッとしたように、

そうだ、そのとおりだと、首を縦に振った。


それは何かを隠しているような、不審を覚える態度のようにも見受けられたけれど──


「驚きました。この世には、これまで私の目には見えていなかった天狗の世界があるのですね」


それ以上尋ねてはならぬ、
踏み込んではならぬことのように思えて、私はただ微笑んで……


突然、朔太郎が驚いた顔をして、私の帯から吊り下がった根付を指さした。

「鈴、その根付は──?」
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