ぼくたちは一生懸命な恋をしている
22.かなで
勘弁してくれ。
あいりが自室に戻っただろうタイミングを見計らって廊下に出てみれば、ぼんやりとした照明の下、駿河が立ち尽くしていた――向かいのあいりの部屋の前で。「おい」と小声で呼びかけると、いつもの笑顔で振り返る。「なんだい?」じゃないだろう。あごでしゃくってオレの部屋に入るよう促した。
「うわ、何この臭い」
油絵具やクリーナーの匂いに駿河は遠慮なく顔をしかめた。あいりは昔から嗅ぎ慣れていたから気にならなかったのだろう。いや、それどころじゃなかった、と言ったほうが正解かもしれない。オレは真っ直ぐに目を見て問うた。
「確認させてくれ。あのサイトはお前の仕業か」
「なんのことかな」
「オレにもあいりにも心当たりがないなら、もうお前しかいないと思うんだが」
まともな返事をするまで譲る気などないオレの覚悟を察したのか、駿河は薄ら笑いを崩してため息をついた。
「お前たちがしてないなら犯人は俺しかいない。泥棒にでも入られない限りね」
この回りくどい肯定。腹が立つことこの上ない。
「なんのためにこんなことした。あいりの気を引きたかったんだとしたら大失敗だぞ。そもそも人の日記を読んでる時点でアウトなのに、おまけに人目にさらすとか理解できねぇ」
言い募るほどに、信じたくない気持ちがうずく。頼っていいと約束したくせに、このざまか。失望と同時に、同情もする。恋に囚われると、この明哲な男でも善悪の判断がつかなくなってしまうのだ。
駿河が、ぽつんとつぶやいた。
「あいちゃん、泣きそうだった」
そんな頼りなげな声を出して、どちらが子どもか分からない。
「あぁ。あいりは傷ついた。てめぇが身勝手に傷つけたんだ」
すっかり黙ってしまったところを見るに、罪悪感はあるらしい。
「とりあえずオレが濡れ衣かぶってやったが、どうする。気の迷いで済まされるようなことじゃねぇのは百も承知だが、オレはあいりを傷つけたくないし、お前のことも信じたい。二度とこんなことしねぇと誓うなら、今ここでオレにノートを渡せ。そうすればあいりの誤解は解かないでおいてやるし、この件は墓場まで持っていく」
なかなか動かない駿河に、ひとこと「冷静になれ」と重ねた。
駿河は部屋を出てすぐに戻ってきた。たぶん、追いつめられて正気を失っていたのだとは思う。ただ、五冊ものノートを寄こしながら「ごめんね」とヘラヘラ笑うその態度は、自分でも驚くほど癇に障った。
「おい、ふざけんなよ。ここまできて誤魔化そうとすんな」
この怒りは、きっと八つ当たりだ。オレは駿河に自分を重ねている。自分の非を認められなくて逃げようとする姿は、あの日のオレを見ているようで耐えられない。けじめをつけたいと、後悔が叫び続けている。
オレの気迫に感じるものがあったらしい。駿河はようやく殊勝な態度で「ごめん」と言った。
「誰がお前の生殺与奪を握ってんのか分かってるよな。次はねぇから」
「……肝に銘じるよ」
あいりには見せない情けない表情。やはりオレたちは似ている。
「なぁ。完璧なだけが全てじゃないらしいぞ」
ドアノブに手をかけた背中に、お節介を投げつけてやる。
「そうだね。そんなこと、もうずいぶん昔から知ってるはずなのにね」
扉が閉まったあとには、やけに意味深な余韻が残されていた。
大人でも迷うのだ。子どものオレが迷わないでいられるわけがない。
オレは、キャンバスに掛けていた布を取って床に捨てた。頭の中に浮かぶ理想を描き出そうと、ひたすらもがいた跡がこびりついたそれを塗りつぶし、一からやり直す決意を固める。
時間がなくて焦るけれど、納得のいかないものを人目にさらすわけにはいかない。今、出せる全力で描きたい。
白い絵の具を、迷いの跡にぶちまける。
何度でも立ち向かわなければ、迷いの先には行けない。
あいりが自室に戻っただろうタイミングを見計らって廊下に出てみれば、ぼんやりとした照明の下、駿河が立ち尽くしていた――向かいのあいりの部屋の前で。「おい」と小声で呼びかけると、いつもの笑顔で振り返る。「なんだい?」じゃないだろう。あごでしゃくってオレの部屋に入るよう促した。
「うわ、何この臭い」
油絵具やクリーナーの匂いに駿河は遠慮なく顔をしかめた。あいりは昔から嗅ぎ慣れていたから気にならなかったのだろう。いや、それどころじゃなかった、と言ったほうが正解かもしれない。オレは真っ直ぐに目を見て問うた。
「確認させてくれ。あのサイトはお前の仕業か」
「なんのことかな」
「オレにもあいりにも心当たりがないなら、もうお前しかいないと思うんだが」
まともな返事をするまで譲る気などないオレの覚悟を察したのか、駿河は薄ら笑いを崩してため息をついた。
「お前たちがしてないなら犯人は俺しかいない。泥棒にでも入られない限りね」
この回りくどい肯定。腹が立つことこの上ない。
「なんのためにこんなことした。あいりの気を引きたかったんだとしたら大失敗だぞ。そもそも人の日記を読んでる時点でアウトなのに、おまけに人目にさらすとか理解できねぇ」
言い募るほどに、信じたくない気持ちがうずく。頼っていいと約束したくせに、このざまか。失望と同時に、同情もする。恋に囚われると、この明哲な男でも善悪の判断がつかなくなってしまうのだ。
駿河が、ぽつんとつぶやいた。
「あいちゃん、泣きそうだった」
そんな頼りなげな声を出して、どちらが子どもか分からない。
「あぁ。あいりは傷ついた。てめぇが身勝手に傷つけたんだ」
すっかり黙ってしまったところを見るに、罪悪感はあるらしい。
「とりあえずオレが濡れ衣かぶってやったが、どうする。気の迷いで済まされるようなことじゃねぇのは百も承知だが、オレはあいりを傷つけたくないし、お前のことも信じたい。二度とこんなことしねぇと誓うなら、今ここでオレにノートを渡せ。そうすればあいりの誤解は解かないでおいてやるし、この件は墓場まで持っていく」
なかなか動かない駿河に、ひとこと「冷静になれ」と重ねた。
駿河は部屋を出てすぐに戻ってきた。たぶん、追いつめられて正気を失っていたのだとは思う。ただ、五冊ものノートを寄こしながら「ごめんね」とヘラヘラ笑うその態度は、自分でも驚くほど癇に障った。
「おい、ふざけんなよ。ここまできて誤魔化そうとすんな」
この怒りは、きっと八つ当たりだ。オレは駿河に自分を重ねている。自分の非を認められなくて逃げようとする姿は、あの日のオレを見ているようで耐えられない。けじめをつけたいと、後悔が叫び続けている。
オレの気迫に感じるものがあったらしい。駿河はようやく殊勝な態度で「ごめん」と言った。
「誰がお前の生殺与奪を握ってんのか分かってるよな。次はねぇから」
「……肝に銘じるよ」
あいりには見せない情けない表情。やはりオレたちは似ている。
「なぁ。完璧なだけが全てじゃないらしいぞ」
ドアノブに手をかけた背中に、お節介を投げつけてやる。
「そうだね。そんなこと、もうずいぶん昔から知ってるはずなのにね」
扉が閉まったあとには、やけに意味深な余韻が残されていた。
大人でも迷うのだ。子どものオレが迷わないでいられるわけがない。
オレは、キャンバスに掛けていた布を取って床に捨てた。頭の中に浮かぶ理想を描き出そうと、ひたすらもがいた跡がこびりついたそれを塗りつぶし、一からやり直す決意を固める。
時間がなくて焦るけれど、納得のいかないものを人目にさらすわけにはいかない。今、出せる全力で描きたい。
白い絵の具を、迷いの跡にぶちまける。
何度でも立ち向かわなければ、迷いの先には行けない。