好きだけじゃ足りない
所長に挨拶がてら小さく礼をして鞄を持ち、印刷所を出る。
伊織は来るなんて言っていたけど、来るはずがないとどこかで思っていた。
だって伊織は…
「メグ。」
「………何でいるの…?」
「来る約束しただろ。もう忘れたのか?」
どうして…?
貴方は此処には来ちゃ駄目なのに。
「………奥さんいるくせに。」
貴方には…奥さんがいるでしょ?
三年前、私を捨ててまで結婚したあんなに綺麗な奥さんが。
「…とにかく、乗れよ。」
モスグリーンのアウディの助手席のドアを開けて、笑う。
否定も肯定もしないなんて、なんてズルイ人なんだろう。
それでも、私は貴方には抗えない。
面と向かって言われれば車にだって乗るし、迫られれば脚だって開く女なんだから。
「…ねぇ、どこ行くの?」
「適当。あ、シートベルト締めてな。じゃないと俺捕まるから」
左側にいる伊織がそう言って車のキーを回してエンジンを掛けるのを見て私も大人しくシートベルトに手を伸ばしていた。
「……元気だったか?」
「……うん。」
「………そうか…。」
会話は続かなかった。いや、続ける気はなかった。
どこかでボーダーラインを張ることで自分を戒めたかったのかもしれない。
無言の社内には伊織が好きな洋楽が賑やかに流れていて、それに耳を傾けながら窓の外に流れる景色を目で追った。
「なぁ…メグ。」
「……なに。」
「メグは…俺と離れてどう思った?」
何なんだろう…。
この男は何を聞きたい?
私が「寂しかった、会いたかったよ」なんて言うと思っているのだろうか。
それなら間違いも良いところ。