好きだけじゃ足りない
伊織のマンションを出て、駅まで振り向かずに走った。
土曜日の昼下がりにビジネススーツを着て走る女なんて恰好の見せ物ではあるけど、そんなの構ってられなかった。
駅前に近づくにつれて多くなる人混みを掻き分けながらただ歩いた。
あの時、伊織が結婚をするとわかった時よりも大きな大きな溝のような穴がぽっかりと開いた気分。
たぶんそれは私から伊織にお別れを言ったから。
何もわからずにただ、流されたあの時とは違うとわかるから。
「――…バカみたい…。」
ポツリと口から無意識に漏れた音に自嘲的な笑いが漏れた。
大切なのにどうして自分から離れたりしたのか…そんな考えと、大切だから自分から離れたんだ。
二つの考えが頭を過ぎりながら改札に向かう。
伊織のマンションに行くようになってから買った定期券。
期限はあと半年近く残っているのにこれの出番は今日が最後なんだと思えば余計に寂しくなってしまう。
人でごった返す構内、改札をすり抜けてプラットホームに向かう中で伊織の声が聞こえたような気がして振り向いて、また落ち込む。
いるはずがないとわかっていても、期待してしまうのは私がまだ伊織を好きだからだ。