六天楼(りくてんろう)の宝珠
 翠玉が辺りを見渡すと、確かに遠目にではあるが誰かの部屋が木々の合間に見える。一人になりたくてぶらりと庭に出た。偶然見付けた瀟洒なこの建物が気に入って来てみたのだが、こんなに奏天楼に近かったとは気付かなかった。

「わ、私だっていつもそんなに迷ってばかりいませんよ」

 ばつが悪くなって、つい尖った言い方になってしまう。

 だが碩有は気分を害した様子もなく、彼女の隣に立って橋の欄干に手を掛けた。

「そうですか? 貴女の飼い猫、莉でしたか──あれもよく迷い猫になりますよね。飼い主に似ると言うのは本当らしい」

 翠玉は答えに詰まった。確かにそうかも、と思ってしまう。だが。

「籠に入れたり紐に繋ぐのは可哀想だから、放し飼いにしているのです。ちょっと出歩いてばかりだけど……猫は本来、気紛れなものでしょう?」

 言い逃れてみようと試みる。碩有はそれには答えなかった。代わりに指を伸ばして彼女の首筋に触れる。白い中にそこだけが赤く、色づいていた。

「なっ」

「……ここ『も』、痕(あと)になってしまいましたね」

 翠玉は飛びすさる勢いで夫から離れ、指された場所を己の手で隠した。召し替えの時にも考え事をしていてろくに見ていなかったのが迂濶だった──紗甫に見られたに違いないと思うと、顔に朱が上る。

「ほ、本当ですか!?」

 生憎と鏡の様なものは持ち合わせていず、遣水を覗き込んでみるしかなかった。せせらぐ小川は日の光を反射して穏やかに流れ、人の姿を鮮明に捉えるには用を成さない。

 ふと、伸ばしたままの手を空中で静止させ、碩有が黙ってこちらを見ているのに気づいた。

「あ、いえ別にその」
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