六天楼(りくてんろう)の宝珠
 逃げたわけではない──そう言おうとした時、彼はほろ苦い表情を浮かべた。

「怯えさせてしまった様ですね」

「ち、違います。今のはものの弾みというもので」

 否定しようと手を振った。その指が、彼に一本一本絡め取られる。

「でも半分は貴女にも責任があるのですよ。……気づいていない様ですが」

 後頭部が別の手で引き寄せられる。

「貴女がこうして此処に在るだけで、どれだけ私が──」

 近づいて来る顔に抗いがたい磁力を感じながらも、翠玉は目の前に自由な方の掌をかざすのが精一杯だった。

「ま、待って下さい! まだ昼日中ではないですかっ。こんな場所で誰かに見られたら」

 碩有は待ったを掛けた妻の掌を避けもせず、笑って言った。

「では昼でなく、人に見られる場所でなければ良いと受け取っていいのですね」

「何言っているんですか!」

 今までの穏やかさが嘘の様だ、翠玉は狼狽えた。こんな困らせる様な事を言う人だったなんて──確かに、引き金を引いたのは自分かもしれないが。 

「……翠玉。貴女は此処から自由に出たいと思いませんか」

 不意に聞こえた、真剣な声音に驚いて夫を見上げた。自分の掌がまだそこにあるせいで、表情の半分は見えないが──黒い双眸はもの問いたげで、悲哀に似たものが感じられる。

「それは一体、どういう意味ですか?」
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