六天楼(りくてんろう)の宝珠
「碩有様! お待ち下さい、碩有様!」

 自分より歩みの速い青年に、翠玉は回廊を早足で追いすがった。
 純然たる陶風な木造の建物にあって、碩有の装いは異彩を放って見える。それが此処では次期領主の証なのだと聞かされていたが、今彼女自身が抱えている問題も相まって、得体の知れない印象さえ受けた。
 彼が着ている異国渡りの『背広』という衣服、その上着の一部を、必死に掴んで食い下がる。

「何故承諾しておしまいになるのです? 第一、一族の方々が反対なさるに決まっています!」

「御館様である祖父の決定に、抗う者はおりません。例えお亡くなりになっても、遺言は書面で残されます。側室の譲渡は先代にもあったこと、ご心配には及びませんよ」

 ようやく追いついたと、背広の背中を掴んで離さない翠玉を振り返りもせず、碩有は静かな言葉だけで反応を示した。

「──心配とか、そういうことじゃなくて……っ。貴方はそれでいいのかってことよ! もし他に思う人とかいたら」

「……とりあえず、手を離して頂けませんか」

 掴んだ所がはっきりと皺になっているのに気づいて、慌てて彼女は手を離す。

「ごめんなさい──でも、私は一夫多妻じゃない世界で育ったの。だから……相手の人が悲しむんじゃないかと思って。周りも……」

 碩有は振り返って翠玉に向き直った。頭一つ高い位置から刺さる視線は冷ややかで、威圧感さえ覚える。
 何年か前に一度会ったきりで、彼女にとっては久しぶりの再会である。以前は親切にしてもらったと思うが、こんな冷たそうな人だっただろうかと憮然とした。

 夫の言葉通り、立派な青年ではあるけれども──

「僕の恋愛にまで配慮頂かなくても結構ですよ。……色々と方法はあるでしょうから。それより祖父についていてあげてください。医師から話は聞いていると思いますが、ああ見えても本当に危ないのです」

 素っ気無く言い置いて、碩有は元通り歩き出した。その広い背中を、絶句したまま見送る。

──そういうこと。
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