六天楼(りくてんろう)の宝珠
 もしかしたら、開けてはいけない扉なのかもしれない。或いはもう、榮葉はここを出ているかもしれない。

 それでもどんな思いでいるのか、確かめずに悶々としてはいられなかった。

 蓉天楼近くに近づくにつれ、遠目に人の姿が見える。着物姿でこちらに背を向けていた。榮葉に間違いない。

──まだ間に合った。

 更に近寄ろうとして、翠玉は咄嗟(とっさ)に近くの茂みに隠れてしまった。顔だけを覗かせてにじり寄り、様子を窺う。

「支度が済んだ様だな」

 客房の奥から、聞き覚えのある男の声がしたからだった。

「この度は大変お世話になりました。ご恩は終生忘れは致しません」

「桐に戻ったら、吏庚殿に宜しく伝えてくれ。──急な要請ではあったが、彼ならば良い町長になれるだろう。期待していると」

「はい。ありがとうございます」

──碩有様。

 中庭からは榮葉の話す相手の姿が影になっていてよく見えない。だが間違えようのない夫の声、よりによって二人が会話するのを盗み聞く羽目になるとは。

 理性は帰るべきだと警鐘を鳴らしていた。

「……初めてこちらに伺った時は何と壮麗なお屋敷かと驚きました。今更ながら、碩有様はご領主様なのだと痛感させられます。桐においでの時は──」

 榮葉は笑みを浮かべている様に見えた。先ほどと同じ表情を。

「正直あの時は、過去に戻ったと錯覚しそうになりましたが。奥方様にお目にかかって、それは幻想に過ぎないとわかりました。──いえ、もしかしたら五年前からそうだったのかもしれません」
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