六天楼(りくてんろう)の宝珠
 誰に話しかけているのかは明白だったが、相手の答える気配はない。ただ足音だけが明らかな苛立ちの響きを以って、房の床を鳴らしていた。

──碩有様。

 戻って来るとは思わなかった、と彼女は驚愕した。すぐに出て行くのならともかく、居座られては益々此処を出て行けなくなる。

 室内に入って来た碩有は、明らかに不機嫌そうな様子に見えた。だが長椅子に腰掛けたらしく、そうなると鎧戸からは表情がよくわからない。付いて来た朗世も扉近くにいるらしく、声でその存在を知るのみだった。

「しかし六天楼を供も連れずに抜け出し、あまつさえ迷子になるなど前代未聞。例え奥方様といえども、この上は侍女共々、何らかの罰を受けて頂かなくてはなりますまい」

 淡々と語る朗世の言葉に翠玉は瞠目した。

──罰。

 六天楼には妻妾の守るべき数々の掟がある。戴剋時代からそれは知っていたが、表立って罰を受けた事はなかった。他の側室も既にいなかったので、知らず知らずの内に何処か軽んじてしまっていた。

「……その話は後だ。今は」

 碩有の声は、聞いた事がないという位低かった。

 言いかけて彼は立ち上がり、卓の上に紙を取り出して何やら文字を書いている。書き終わるとその紙を部下の目の前にかざしている様子が見えた。

「──そうだな。供を連れてくれという私の意見を聞き届けず、挙句邸内で何かあったとなれば。紗甫とか言ったか、それに槐苑も。掟通りならば監督不行き届きで連座で罰を与えるべきなのだろう。朗世、この様にすぐ手配してくれ」

 一瞬の間の後、朗世の歯切れ良い返事が聞こえた。

 翠玉の爪先がすう、と冷えて行く。
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