六天楼(りくてんろう)の宝珠
終
もう二度と会う事もないだろうと、碩有は思っていた。
だがその機会は予想に反してすぐに訪れた。しかも祖父の私室に側室がいる場面に出くわすという、かつてない状況の下で。
彼は面伏せて仕事の指示を受けながら、何故戴剋が人払いをしないのだろうと訝しく思った。さらさらと衣擦れの音が遠くで聞こえる。普段は開放されている二つの私室の間には、今日は簾が下りていて、向こう側に色鮮やかな着物の後ろ姿が見えた。
明らかに女性のものと思われる香の匂いが、辺りに優しく漂っている。水辺に咲く花の様な清清しい空気は、翠玉そのものに思えた。
──此処から、離れた方がいいのかもしれない。
そんな出来事が何度か続いて、彼は屋敷を離れ遊学する決心を固めた。
本来は旅行程度の視察でも構わないが、この際外に目を向けるべきだと思ったのだ。
不可侵なる、祖父の側室。
同じ部屋にいながらも、決して言葉を交わす機会もなく。
目を合わせるわけでもない。
なのにいつの間にか思いは膨らみ、己を持て余している事に気づき戸惑う。
──相手は祖父の妻ではないか。……きっと、洛を離れれば忘れられるだろう。
彼は自分がそう情熱的な性質ではないと考えていた。だから桐への出立の当日、祖父の下へ挨拶に訪れた時も冷静に、心の中で別れを告げれば良いなどと思っていたのだった。
──戴剋が奥の部屋に向かって、「翠玉も何か言うてやりなさい。許すぞ」と言い出すまでは。
簾の内、影が動いてこちらを向いたのがわかった。
「……お身体をおいとい下さい。領主補佐としての遊学、立派に果たして来られます様、お祈りしております」
優しい、愛らしい声に碩有は息を呑んだ。以前一度聞いただけだというのに、懐かしささえ覚えるのは何故なのだろう。
「ありがとうございます。……琳夫人も、お元気で」
全くどうかしている、と思った。政治には冷徹な手腕を評価されるこの自分が、女性の言葉一つに動揺するなんて、と。
おかげで声が上ずらない様に返事をするのに、意志の力を総動員する羽目になった。
だがその機会は予想に反してすぐに訪れた。しかも祖父の私室に側室がいる場面に出くわすという、かつてない状況の下で。
彼は面伏せて仕事の指示を受けながら、何故戴剋が人払いをしないのだろうと訝しく思った。さらさらと衣擦れの音が遠くで聞こえる。普段は開放されている二つの私室の間には、今日は簾が下りていて、向こう側に色鮮やかな着物の後ろ姿が見えた。
明らかに女性のものと思われる香の匂いが、辺りに優しく漂っている。水辺に咲く花の様な清清しい空気は、翠玉そのものに思えた。
──此処から、離れた方がいいのかもしれない。
そんな出来事が何度か続いて、彼は屋敷を離れ遊学する決心を固めた。
本来は旅行程度の視察でも構わないが、この際外に目を向けるべきだと思ったのだ。
不可侵なる、祖父の側室。
同じ部屋にいながらも、決して言葉を交わす機会もなく。
目を合わせるわけでもない。
なのにいつの間にか思いは膨らみ、己を持て余している事に気づき戸惑う。
──相手は祖父の妻ではないか。……きっと、洛を離れれば忘れられるだろう。
彼は自分がそう情熱的な性質ではないと考えていた。だから桐への出立の当日、祖父の下へ挨拶に訪れた時も冷静に、心の中で別れを告げれば良いなどと思っていたのだった。
──戴剋が奥の部屋に向かって、「翠玉も何か言うてやりなさい。許すぞ」と言い出すまでは。
簾の内、影が動いてこちらを向いたのがわかった。
「……お身体をおいとい下さい。領主補佐としての遊学、立派に果たして来られます様、お祈りしております」
優しい、愛らしい声に碩有は息を呑んだ。以前一度聞いただけだというのに、懐かしささえ覚えるのは何故なのだろう。
「ありがとうございます。……琳夫人も、お元気で」
全くどうかしている、と思った。政治には冷徹な手腕を評価されるこの自分が、女性の言葉一つに動揺するなんて、と。
おかげで声が上ずらない様に返事をするのに、意志の力を総動員する羽目になった。